館長室から

#116 霜月 「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―⑧

2023年11月1日

◆衣川
 芭蕉は本文中に、「衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。」と記していますが、その註釈書の『奥細道菅菰抄』は、「衣川は、磐井郡衣が関の前を流る。古俳諧歌に、きのふたちけふきて見ればころも川すそのほころびさけのぼるらん、と云あり。正しき名所にや、未詳。此川の中の瀬と云処にて、武蔵坊戦死せしと云印の松あり。」と武蔵坊弁慶最期の地として説明しています。芭蕉も当然弁慶を想起していたはずです。

◆衣川合戦
 義経主従が最期をとげる場面は『義経記』に「衣川合戦」の題目で最大の山場として設定されています。
 諸本により人数の異同がありますが、流布本で見ますと、
「泰衡方は「二万余騎」の大軍で攻め寄せる。義経方は、「武蔵坊、片岡八郎、鈴木重家、亀井六郎兄弟、鷲尾三郎、増尾十郎、伊勢三郎、備前の四郎」の八人で迎え撃ち「十郎権守兼房、喜三太」の二人は屋根の上から矢を射かける。」
 ちなみに、歌舞伎などで「義経四天王」とされるのは亀井六郎・片岡八郎・伊勢三郎・駿河次郎です。

◆武蔵坊弁慶
 中でも目立つのは弁慶の働きです。『義経記』には「弁慶物語」の別名があるほど弁慶の活躍中心に記述されています。義経は無力な悲劇の主人公、弁慶はそれを助ける豪快無比の家臣として描かれています。
 ちなみに、弁慶を歴史学に述べますと、「熊野の別当の子で、幼名は鬼若丸。武蔵坊と号して比叡山西塔(ひえいざん・さいとう)にいたが、源義経に仕えて武名を挙げる。義経の没落に際しても忠実に随行。安宅の関に危難を逃れさせ、後に衣川の合戦に討死した」ということになります。それはさておき、

◆弁慶の歌
「寄せ手を前にして、弁慶は鈴木兄弟に囃させて舞い、その後、喚声をあげて打って出る。寄せ手は弁慶たちの勢いに押されて引き退く。しかし、前日衣川に到着したばかりの鈴木三郎は奮戦するが討死し、弟の亀井六郎も討死する。さらに乱戦の中、増尾、備前平四郎、鷲尾、伊勢三郎と次々に討死。弁慶は血だらけになりながらも奮戦、その勢いに寄せ手は怖れて「近づくな」と叫ぶのみ。
 義経のもとへ戻って最後の別れを告げた弁慶は、死後の約束を交わし、歌を詠む。
「 六道(ろくどう)の道の衢(ちまた)に待てよ君 後れ先立つ習(ならい)ありとも
義経の返歌
  後の世も又後の世も回り会へ染む紫の雲の上まで  」

◆弁慶の最期
 残って戦っていた片岡八郎も討死し、弁慶は一人で大軍に立ち向かう。死に物狂いで戦う弁慶、周りから射かける矢を受けた弁慶の姿は、「武蔵野の尾花が風に靡く」よう。
 弁慶は長刀を杖にして、仁王立ちのまま動かなくなる。寄せ手は「近く寄って討たれるな」と言い合い、「死んでいるはずだ」という者がいても誰も近づかない。弁慶が倒れてはじめて、その死が確認される。人々は、「主君の自害のために人を寄せ付けず、守ったのか」と感動した、云々。

 義経の家臣の主君に対する熱い思いがこの旅の原動力の一つであった芭蕉にあっては、衣川の「中の瀬」に臨んだ際の感懐は極めて大きかったと思われます。
 このように、『おくのほそ道』は、高館の場、すなわち奥州藤原氏、および義経への追懐の念が最高潮に達するように構成されていたことは確かでしょう。

「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―⑧
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

過去のコラム一覧はこちら>>ツキイチコラムバックナンバー