館長室から

#119 如月 菅江真澄 平泉への旅

2024年2月1日

◆平泉への誘い
 奥州藤原氏の都、そして悲劇の名将源義経の終焉の地である平泉は、古来多くの人々を誘い、様々な紀行文が残されてきました。数ある平泉紀行文の白眉が松尾芭蕉の「おくのほそ道」です。

◆義経没後五百年の旅
「おくのほそ道」は、元禄二年(1689)三月廿七日に江戸深川を出発し、九月六日に岐阜の大垣に到るまでの実際の旅の数年後に起草されたものでした。その内容には、実見したこと「事実」に加えて、芭蕉の文学的思いから「創作」された記述が多く含まれています。
 その旅の目的は歌枕や先人の事績をたどることに加えて、義経を追悼することもあったとされます。
 その理由をあげます。
 ▶旅が行われた元禄二年(1689)は義経が死んだ文治五年(1189)の五百年後にあたること(なお、西行はその翌年に亡くなっていますので、こちらは正確に五百回忌の年に当たります)
 ▶芭蕉は平泉以北の地には行っておらず、平泉が最終目的地であったと思われること
 ▶芭蕉の立ち寄り先の多くが、義経およびゆかりのある人に関係する地、事柄に一致 *同行した曽良の句に、権頭兼房に関する卯の花、白髪などの語がある *佐藤継信・忠信、その父母、兄弟の嫁にかかる飯塚(飯坂)の里 *塩釜の宿で奥上るり(奥浄瑠璃)の(「母公物語」を聞く) *塩釜神社で、義経を守り討死した「和泉三郎(忠衡)」寄進の宝灯を見る
 ▶平泉の高舘は、芭蕉が実際に「泪を落した地」(平泉に着いた芭蕉は真っ先に高舘に登り、「笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」とあります)
 ちなみに、この旅で「泪」と「落とす」が重複する部分は三ヵ所ありますが、芭蕉自身が「泪を落す」という表現は、飯坂の佐藤庄司の旧館と、この平泉の高舘の部分だけです。その感慨の深さがわかります

◆「おくのほそ道」約百年後の旅
 元禄二年(1689)の「おくの細道」の旅から97年後の天明六年(1786)に平泉を訪れた人物に菅江真澄(すがえ・ますみ、1754~1829)がいます。
 真澄という人物は「謎の人物」といわれるほどその詳細は不明ですが、現在の愛知県豊橋生まれで、三十歳のころ故郷を出発し、列島各地を旅し、蝦夷地へ渡る。蝦夷地から戻った後半生は秋田に定住し、角館で亡くなっています。その見聞したことを記した日記には当時の庶民生活が活写されています。

◆真澄の見た平泉①
 真澄は岩手の地には天明五年から八年まであしかけ4年間滞在し、前沢の鈴木常雄(すずき・つねお、胆沢郡大肝入)ほかの人々の世話になっています。彼は滞在中に4回平泉を訪れています。和歌・俳句をよくする文人の一人として、芭蕉と同様の思いを抱いての訪問だったと思われます。
 ▶天明六年(1786)一月廿日 日記『迦須牟巨麻賀多(霞む駒形)』「けふは磐井ノ郡平泉の郷なる常行堂に摩多羅神の祭見ンとて、宿の良道なンどにいざなはれて徳岡の上野を出て・・・」という書き出しで、現在の毛越寺常行堂の廿日夜祭のことを記述しています。なお、良道は村上良道で徳岡の肝入(きもいり)、徳岡は旧胆沢町小山です。
 真澄はこの祭礼の始まりから終わりまでを極めて詳細に記述しており、中には演じる人の動作や観衆の反応までが生き生きと記され、きわめて貴重な記録です。
 たとえば、演じられた所作の中には、現在盛大に行われている「裸参り」はありません。寺に伺うと、裸参りは明治時代から始まったそうですので、真澄の記述が本来の様子です。「裸参り」以外は現在と同じで、伝統を守るお寺の人々の努力が偲ばれます。

菅江真澄 平泉への旅
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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