館長室から

#84 弥生 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から大陸まで―⑤

2021年3月5日

それでは義経生存伝説の変遷について具体的に見てゆくことにしましょう。何期かに分けて説明します。

◆第1期―鎌倉時代初期頃
*義経の死の公的記録は、奥州藤原氏を亡ぼした源頼朝が始めた鎌倉幕府が編纂した正史(もっとも権威ある歴史書)である『吾妻鏡』の文治5年(1189)閏4月30日の部分に次のようにあります(原文の漢文を読み下し)。
「三十日己未。今日。陸奥国に於いて。泰衡が源豫州(義経のこと)を襲う。これは、且つは勅定によるもの、且つは二品(頼朝のこと)の仰せによるものなり。豫州は民部少輔基成朝臣の衣河舘にあり。泰衡
の従兵数百騎、某所へ馳せ至って合戦す。豫州の家人など相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。豫州は持仏堂に入り、先ず妻、二十二歳と子、女子四歳を害し、次いで自殺す」。
 
即ち、奥州藤原氏の政治顧問的立場にあった藤原基成の居館の衣河舘に居た義経は、藤原泰衡の軍勢に襲われ、奮戦空しく敗れ、持仏堂に入り、妻子を殺してから自害したのでした。
ちなみに、義経が自害した場所は衣河舘と記されています。現在その具体的場所は未確定ですが、衣河とありますので、旧胆沢郡衣川村、現奥州市衣川の中にあったのは確実でしょう。或いは下衣川の並木屋敷周辺か?
それが、江戸時代頃から、なぜか平泉の高館の地に変わっており、松尾芭蕉も義経の悲劇を思い、真っ先に高館の地で落涙したのでした。

*義経の死直後には、義経に対する称賛と批判の両方が存在しましたが、積極的生存説はなかったといえます。
当時の貴族の九条兼実は、義経の大物の浦での遭難(現尼崎市にある港、1185年、義経が大嵐に遭う)を聞いた際、その日記の『玉葉』(1164~1203年迄)に、「義経こそは武勇・仁義において後世に名を残す人物である。嘆美すべし。しかし、頼朝に対して謀反の心を起したのは、大逆罪といわねばならない」と記しています。自滅した義経に対して、同情は同情、罪は罪と、けじめをつけています。
 また、『吾妻鑑』にも義経の首を見た人々の様子を、「観ル者ミナ双淚ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホスト」(大意)と記していますが、これも平家討伐の大功労者の変わり果てた姿への素直な悲しみであったと思われます。

*奥州藤原氏滅亡の翌年の文治6年(1190)正月六日に、現在の秋田県男鹿半島に大河兼任(或いはおが)の叛乱が起きています(『吾妻鑑』)。
「奥州の故泰衡の郎従の大河次郎兼任以下、去年の窮冬以来、反逆を企て、或いは伊予守義経と称し出羽国海辺の庄に出る、或いは佐馬頭義仲(木曽義仲)の嫡男の日冠者と称し、同国仙北郡(現秋田県横手盆地)に立つ」とあります。
これらは、義経と義仲という有名な武将の名を騙ったもので、生存説とまでは言えないとされています。

義経は生きて北へ逃れた
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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