館長室から

#13 皐月 瀬谷子窯跡群出土瓦について(1)

2025年5月1日

 桜の花が散り、木々の若葉が展開し、風薫る五月を迎えました。行楽に出かける方も多いかと思いますが、一方では田んぼや畑などでの農作業も本格化する時期でもあります。

 今回は古代において北東北最大の窯跡群である江刺地区瀬谷子窯跡群から出土したとされる軒丸瓦と軒平瓦の2点(写真1)について紹介いたします。

 この資料は正式な発掘調査によるものではない個人の採集品なので、どの窯跡から出土したのかは不明です。しかし、写真をご覧になるとわかるように非常に大きな破片であり、瓦の文様や形がよく分かる好資料です。このため当館での常設展示資料となっておりました。

 近年、奥州市教育委員会と奥州市埋蔵文化財調査センターの方々が中心となって、瀬谷子窯跡群の再整理作業と調査・研究を進め、その結果を『古代蝦夷と須恵器 北東北・北海道』(高志書院)という本にまとめられました。

 今回紹介する瓦もこの再整理と研究のため長期間貸し出されていましたが、その終了とともに当館に帰ってきましたので、近いうちに展示ケースに戻して皆さんにご覧いただきたいと思います。

 当館が所蔵する瓦は瀬谷子窯跡群で生産されたものと思われ、このタイプの瓦が鎮守府胆沢城の建物の屋根を飾っていたと考えられています。

 胆沢城では延暦21(802)年の創建以降、城内で検出された遺構の変遷は次の三期に大別されています。第Ⅰ期は9世紀前葉から中葉にかけてで、城内の建物跡は全て掘立柱建物で瓦を葺くものはありませんでした。この時期に多賀城から鎮守府が移転されます。続く第Ⅱ期は9世紀中葉から後葉にかけてで、志波城や徳丹城の廃絶に伴い、陸奥国北部唯一の城柵となった鎮守府胆沢城には様々な機能や役割が集約されました。この時期に政庁正殿と外郭南門が瓦葺となったと考えられています。そして、第Ⅲ期とされる9世紀末葉から10世紀中葉頃を経て鎮守府胆沢城は終末期を迎えます。

 一方、瀬谷子窯跡群では9世紀中葉から坏・壺・甕類の須恵器生産が始まり、9世紀中葉の終わり頃から9世紀後葉そして10世紀前葉にかけて瓦の生産を加えて盛んに操業が行われ、やがて規模は縮小するものの10世紀末までは操業が確認されています。従来の定説では、瀬谷子窯跡群は胆沢城に須恵器を供給するために、胆沢城の影響下に操業が始まったとされていました。確かに瓦の供給先は鎮守府胆沢城が中心であろうと思われます。しかし、近年の研究によると、須恵器の大半(特に壺や甕類)は、むしろ鎮守府胆沢城をとりまく蝦夷社会へ供給することを目的として製作されたとの意見が台頭してきました。これは、上記の作業により瀬谷子窯跡群の内容が再整理され、文献の刊行によりこれまで曖昧だった瀬谷子窯跡群の遺構・遺物が可視化されたことによる成果と言えます。これによって新しい研究の出発点が創出されたことになるので、今後は鎮守府胆沢城出土須恵器の供給元や周辺遺跡での須恵器のあり方などの検討を通して、より議論が深まることと思います。

瀬谷子窯跡群出土瓦について写真1
髙橋憲太郎

髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)

1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。

2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。

2024年、えさし郷土文化館長就任。

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