
#17 長月 万松寺経塚出土渥美産壺について
2025年9月1日
本資料は口縁部が軽く外反する中型の壺で、最大径が体部のやや上方にありやや肩が張った印象を受けます。外面の体部中央と下半部にヘラ状工具によるナデ付けがあり平滑に仕上げられています。また、体部下半(ナデ付けの間)には叩き締めが行われており、この際の押印(叩き目)が横に巡っています。釉は外面では口縁部から肩部に灰釉が施され、一部体部中央まで流れています。内面では口縁部から頸部にかけて施釉されています。釉は風化によるためか大半が灰白色を呈し、緑色のガラス質を呈する箇所は少ないようです。外面には一部スス状のものが付着しているところもあり、二次的に焼成を受けた可能性があります。また、口縁部には5か所の人為的な打ち欠き痕があり、現在はセメントが充填されております。
この資料については、当館前館長の相原康二氏が岩手県立博物館に勤務されていた際に「江刺市増沢出土の経壺について」『岩手県立博物館研究報告』第15号(1997)という論文にまとめられていますので、これを参考にしてもう少し詳しく見てみましょう。相原氏によると、この壺は「昭和20年代に地元民によって発掘されたとのことであるが詳細は不明である」とされています。また、この時の様子を記した『増沢部落誌』を引用して「北側の縁の一辺に一寸壺縁が見えていたので、それを発掘したこと、壺の内部に経巻の軸木の腐食した残欠と金泥の残滓と思われるものが存在した」ことを記載しています。さらに、現所有者からの伝聞として「発掘者は庭石用に平板な石を採取しようとしてそれを取り上げたところ壺が見えたこと、また壺は破損していた」ことを記録しています。これらを総合し相原氏は「蓋石を伴う石室の中に経壺が納置されていた」ことを想定しています。
また、相原氏はこの壺の年代について「12世紀第3四半期から13世紀初頭の渥美産(鴫森古窯)」という説(八重樫忠郎氏鑑定)と、「12世紀後半の渥美産説」(吉岡康暢氏鑑定)の二説を併記し、「この壺は12世紀後半代の渥美産であることは確実である。12世紀後半代のこの地域で経塚を築き、そこに渥美産の壺を納置したのは平泉藤原氏及びその周辺の人々しか考えられない」としています。
一方、愛知県田原町教育委員会が刊行した文献の中で小野田勝一氏は江刺万松寺の経壺を紹介しています。これによると、「この壺は、器形が坪沢10号窯跡出土の蓮弁文壺によく似ている(中略)、12世紀後半から13世紀にかかるものであろうか」とされています(「考古からみた田原」2003)。
万松寺経塚の渥美産壺は相原氏が考察されたように、12世紀後半に伴うものと考えるのは妥当と思われますが、八重樫氏や小野田氏の鑑定結果を考慮すると、中でも新しい時期(例えば文治5(1189)年に近い時期)を想定してみたくなります。如何なものでしょうか。
ところで、万松寺経塚遺跡の周辺には複数の塚が分布し経塚も含まれることが伝えられていますが、詳細な調査は行われておらず実態は不明なままです。今後は現地踏査や試掘調査などの基礎的な調査の実施や関連情報の集約が望まれます。
写真1経塚出土壺
写真2経塚の現況
第1図周辺遺跡分布図

髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)
1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。
2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。
2024年、えさし郷土文化館長就任。