館長室から

#23 弥生 五位塚について(5)

2026年3月1日

〇昭和期以降の五位塚研究

大正12(1923)年に小笠原謙吉によって『史蹟名勝天然記念物調査会報告第三号』に「江刺郡に於ける古墳」(以下、「小笠原1923」)として五位塚古墳群が報告されて以降、大正14(1925)年8月に開催された「奥羽史講習会」に講師として招聘された高橋健自の講義内容、および同年10月に発行された『考古学雑誌』第十五巻第十号(註1)掲載の「彙(い)報」に高橋が投稿した「旅中所見」という記事(以下、「高橋1925」)によって、五位塚古墳群は古墳時代末期に西日本で見られた方墳が後の時代になっても東北地方に遺存していたものと解釈され、その評価については一応の決着を見ました。

この後、小田島祿郎により五位塚古墳群の分布図が作成された以外には、学会において目立った動きが見られなくなります。

戦後、齋藤忠は『日本古墳文化資料総覧』を著し、昭和27(1952)年に第1分冊「文献目録」、昭和28(1953)年に第2分冊「主要遺跡地名表」、昭和31(1956)年に第3分冊「主要遺物件名表」を刊行します。この文献は明治初年から昭和26年までの古墳文化に関わる文献・古墳・出土遺物の総目録です。このうち第2分冊において五位塚が取り上げられ、「地名;岩谷堂町 五位塚古墳」、「封土; 円墳(群集)」とし、備考・文献欄に小笠原の文献(小笠原1923)が付記されています。小笠原や高橋が方墳としていたものを齋藤は円墳としていますが、その理由は明示されていません。

昭和35(1960)年に刊行された『岩手県史 第1巻上古・上代篇』のなかで、小岩末治は「小笠原1923」を引用して五位塚古墳群を紹介しています。更に参考文献として高橋の文献を註2に「高橋健自「江刺郡における古墳」『考古学雑誌』十五ノ一(大正14)」と記載しています。この論文名は「小笠原1923」と全く同じですが、『考古学雑誌』第15巻第1号(写真1)には該当する論文や記事は存在しません。恐らく、前述した「高橋1925」を記載すべきところ、誤記したものと思われます。

平成18年~22年にかけて、岩手県立博物館により奥州市江刺人首川流域遺跡群の詳細分布調査が行われました。この調査は同館の「前平泉文化の研究」後期事業に該当し、その成果は『人首川流域における古代末期遺跡調査報告書』岩手県立博物館調査研究報告書第26冊として平成23(2011)年に刊行されています。調査の内容としては、人首川流域の増沢地区(岩谷堂)、餅田・田原地区(岩谷堂・田原)、稲瀬地区・愛宕地区を対象とし、遺跡所在や現況の確認および伝承地等の踏査と、必要に応じて発掘調査を行っています。

この中で五位塚古墳群については、『岩手県史 第1巻』を引用しながら「小笠原謙吉氏が最初に紹介し(小笠原1923)、続いて高橋健自氏が大正12年の現地調査で6基の塚を確認し【三個は長楕円形にして前方後円墳ではなかったかと思われる。他の四個は円墳であるが基部は方形であったように見た】」と記載しています。また、高橋健自の論文として『岩手県史 第1巻』同様に存在しない文献名を記載しています。更に、高橋の論文から引用したとする【】内の文章は、実は「小笠原1923」のものです。このように、同報告書では五位塚古墳群の研究史の記載において一部混乱があるので引用等の際には注意が必要となります。

しかし、同報告書では小田島祿郎が記録した分布図(図1)を公開したほか、五位塚を北上市の中世墓である「ひじり塚」と比較し、「火葬骨を埋納する中世墓成立以前か、中世後期以降の簡略化した墳墓の可能性」を想定しています。また、同じ尾根上に存在する神塚・元和元(1615)年銘の経塚・七里塚・南端の方形壇状塚等についても解説を加え、塚の構成内容が単一ではなく、造られた時代も幅があることを指摘する等の研究成果を上げています。

平成26~27年にかけて、五位塚古墳群の更に南側の伊手川流域の大日前遺跡において奥州市埋蔵文化財調査センターによる発掘調査が実施され、D区にて5基の方形周溝群を検出しています(図2)。この遺構群からは出土遺物がなく所属時期は不明ですが、これに隣接し主軸方向が近似する溝跡から12世紀後半代の遺物がまとまって出土しました。発掘調査報告書(遠藤栄一ほか『松川遺跡・大日前遺跡』奥州市埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書第14集 2016)によると、市内外の方形周溝は所属時期の不明なものが多いが、墳墓や経塚などが想定されるとのことです。また、五位塚古墳群も方形周溝に特徴が似ており、藤原経清の伝承があることから11世紀後半から12世紀代に伴う可能性を想定されています。

このように、五位塚古墳群は当初古墳時代末期から古代の古墳群であるとした解釈のみならず、最近では古代や中世の墳墓や経塚などを含む可能性が指摘されるようになってきました。

註1;前回のツキイチコラムでは「『考古学雑誌』第十五巻第十二号」としましたが、「同第十号」の間違いでした。
また、ツキイチコラム#19の最終段落の「大正15(1926)年」は「大正14(1925)年」の間違いでした、お詫びして訂正いたします。

写真01 考古学雑誌目次写真01 考古学雑誌目次

第1図 五位塚古墳群分布図第1図 五位塚古墳群分布図

第2図 大日前遺跡方形周溝群第2図 大日前遺跡方形周溝群

髙橋憲太郎

髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)

1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。

2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。

2024年、えさし郷土文化館長就任。

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